教会学校のあり方についての試論1

もう5年も前のことですが、いまいる教会とは別の教会にいるときに、ある場で語った内容の原稿です。教会学校()についての考えですが、何か似た状況にある方で、何かしら参考になったり、力添えになったりする場合があるかもしれないと思い、また反面教師になってもよいと思い、公開することに致しました。抜粋してお届けします。

そもそもとは何でしょうか。ChurchSchool、いわゆる教会学校です。これは、教会が運営する学校組織といったふうに聞こえる言葉かもしれません。日本語では語を結合させたとき、後のほうがメインになりますから、この語は学校ですよ、と告げている感覚があります。

しかし他方、子どもをただ遊ばせているだけ、というように見えるケースもあります。親が礼拝に出ている間の託児所保育園(ナースリー)となっているとすれば残念です。

また、子どもの立場から捉えてみると、教会は楽しいところ教会に自分の居場所があるという感覚が具わることが望ましいのはもちろんです。自分が必要とされているところ、自分が安心できる場所、そんな思いは、たんなる知識では身につきませんし、また、すべてが遊びであっても感じ取ることはないでしょう。

そこで、このを、礼拝であると認識するところからスタートしたいと願います。今の教会学校を、子どものあり方に見合った礼拝が別室で同時に開かれている、という観点で捉えたいと思うのです。

礼拝は、神と、神の民との対話でした。また、神の民の当然の務めでした。聖書の中で、子どもはしばしば神の民に含まれて数えられています。旧約聖書には、イスラエルの民がピンチの時、民が神の前で誓い、また祈るようなとき、その場によく子どももいたことが記されています。神に愛された民の中に、子どもは確実に含まれています。新約聖書で、イエスが子どもが近づくことを拒まないばかりか、抱き上げて祝福していることは、あまりにも有名です。

礼拝という場から、子どもを除外してよいものかどうか。理念的な追究ではありますが、たんに私たちの静粛な厳粛なという思いだけで片づけず、聖書はどう教えていると思われるか、まだ学ぶ必要があろうかと思います。

時期尚早であるかもしれませんが、理想的な形態として、大人も子どももいっしょに会堂での礼拝に加わることができたらという願いを掲げます。さしあたり伝道礼拝のときには子どもも会堂での礼拝に参加するという形を設けられたらということを考えています。つまり伝道礼拝は、子どもたちへの伝道でもあるということです。

(続く)